プロが見たこの映画
宣伝担当が語る「私たちは、本当に「心」を失ったのか?」
「世の中っていつからこんな狂ってるんだろう」
先日5月17日に公開を迎えた、映画「ミッシング」の主人公・沙織里(#石原さとみ)の言葉だ。
愛する幼娘の突然の失踪。本作で描いているのは、消息の手がかりがないまま、時間だけが経過した家族の3ヶ月後。本当の地獄はいなくなった当初じゃない。その後だ。
私はこの作品の宣伝プロデューサーとして、ここ1年半ほど、ずっと向き合ってきた。
石原さとみさんの演技という言葉では括れない圧倒的な表現はもちろんのこと、実は見た人が度肝を抜かれるのは、#中村倫也さん、#青木崇高さん、#森優作さんをはじめとする共演者の方々の怪演ぶり。観るものは必ず、誰かに、どこかに、共感する。それは主要キャラクターだけではない。映画の画面に映り込む、それこそ街ですれ違うセリフもない一人の登場人物でさえも、「共感」を感じてしまうリアリティこそが、本作が既に「本年度邦画NO1」、「映画賞確実」と声が上がっている所以だろう。
いや、本当に、吉田恵輔監督(脚本は監督の完全オリジナル)の作家性はスサまじいとしか言えない。その才能には、同じ人間としてある種、畏怖の念すら感じるほどだ。私は、彼が“今を生きる”世界屈指のクリエイターだと確信している。
そんな、演者さんの怪演っぷりや監督の凄さについては、たくさんのメディアで紹介されているし、何より、既に公開済みで多くの人が感想を発信してくれているので、ちょっと検索してもらえれば伝わると思う。この場では、また違う角度で本作を紹介したい。
この映画が凄いのは、ズバリ、「今という空気」の切り取り方である。
ほとんどドキュメンタリーとも思えるぐらい、「今の世の中の空気」をそのまま映し出し、リアリティが超絶過ぎる。ゆえに観たもの全てが「自分ごと」として本作にのめり込んでしまう。誰もがその映画の中に入り込んでしまうのだ。だって、本当に自分が普段感じ、接している空気そのものが描かれているから。2時間という上映を通して、観るもの全てが「本作の主人公は自分かも」というのを衝撃体験し、観賞後もずっと心を揺らし続けるのである。本作は、間違いなく「あなたに大きな変化をもたらす衝撃の映画体験」となるはずだ。
そしてめちゃくちゃ辛い時間を経た上で、観客が持ち帰るのは、「優しい気持ち」。(意外かもしれないが)
誰かに寄り添う気持ち、誰かの気持ちをちょっとだけ想像する力。
そんなものを得ることができる。
話は少し飛ぶが、、、現代社会は随分ととっても便利になった。インターネットの技術革新によって、地球の裏側にいる人とも今この瞬間にコミュニケーションが取れる。これって当たり前に享受しているけど、めちゃくちゃ凄い事だと思う。人類が生まれてから何万年?何十万年?も前から縛られてきた、物理的な距離とか土地とか、そうゆう概念が崩れ落ちたのだ。今までは土地という概念に縛られていたので、例えば、その土地のコミュニティに合わないな、俺は、と思っていたとしても、生きるためにはそのコミュニティに合わせる必要があった。
でも、インターネットの技術革新によって距離や土地という縛り関係なく、人は容易に「誰か」との繋がりを持てるようになった。自分と同じ考え、思考、趣味を持つ人たちと、地球という大きなプラットフォームの上で簡単に繋がれるのだ。(言語の違いも今じゃほぼAIが解決してくれる)
30数年前、私がまだ学生だった頃は、家族と近所、学校のクラスや、地元の仲間たちが自分の全てだった。そのコミュニティの中でみんなとは違う考えを持つ奴がいると、排除された。学校だったら「変わったやつ」として、イジられることとなる。でもインターネットによって、仮にリアルのコミュニティの中では「変わり者」として存在していたとしても、地球規模という世界で見たら、同じような考えを持つ人と簡単に繋がれるのだ。すなわち、誰もが孤独ではないと思えるようになった。(錯覚かもしれないが、、)
そう、誰もが、ニッチな存在ではなくなった時代。
そう考えると、オタクという言葉が死語となったのも納得だし、数十年前まである種ニッチコンテンツと思われていたアニメが、日本をはじめ世界中で現在、超人気コンテンツになっているのも、いわばこのインターネットによる人の繋がりによるものだろうと思う。
距離がなくなり、誰とでも繋がれるようになったのは、とても良いことだと思う。
人間一人ひとり、自分自身に正直になった方が生きやすいと思うし、昨今「多様化」とか叫ばれるのも、この力によるものだろう。
ただ、人は物理的な距離が無くなったことによって、失くしてしまったものはないだろうか?
便利や効率と引き換えに、失くしてしまったものはないだろうか?
失くしたものは、「想像力」だと思う。
インターネットによって、自分が存在を認めてもらえる存在と繋がれることによって、物理的に距離の近い人との繋がりが必要なくなってしまった。いや、この際物理的な距離すらも関係ない。自分と自分が繋がっているコミュニティの人との「繋がり」だけが重要で、それ以外の人に合わせる必要がなくなってしまった。なので、他の人がどう思っているのか、何を考えているのか、想像すらしなくても良い状況になってしまっているのではないだろうか。「俺は俺、あいつはあいつ。」とすぐ隣にいる人が何を考えているのかわからないし、知らなくても良い世の中になってしまったのだ。
映画「ミッシング」では、テレビの力を借りて必死で娘を探す母親に、ネット上でバッシングが起こる。「育児放棄の母」と。
テレビは尺が決まっているし、視聴率で成り立っているメディアなので、煽り気味な切り取り表現求められることがある。それを見た視聴者が、その切り取りをさらに切り取った形で、無邪気に発信する。
もちろん、発信側も悪意はないだろう。
単純に自分が思ったことを、匿名でネット上に発信しているだけで、まさか、それを当事者本人が見ているとは思っていないと思う。でも主人公の母は必死だ。それこそ、何か手がかりはないかと、尋常ないほどエゴサをしている。そこで見にする自分へのバッシング。
とても残酷な描写だ。
本作はそんな世の中をリアル過ぎるぐらいリアルに描く。
我々に、「大切なものは何か」を問いかけてくる。
そして、見た人に「想像力」を与えてくれる。
その発言をする前に、SNSで投稿する前に、「いいね!」をクリックする前に、一瞬だけ立ち止まって、受け手の気持ちをちょっとだけ「想像」してみては?と、本作は言っているよう感じる。今を生きる全ての一人ひとりがそんな意識を持てれば、この世の中はちょっとだけ優しくなると思う。
この映画を1人でも多くの人に届け見てもられば、この世がほんの少しだけかもしれないが優しくなるかもしれない。
そんな思いで宣伝をしてきた。
なので、偶然にもこの記事に触れて、最後まで読んでくれた稀有な存在である、「あなた」にお願いです。
ぜひ本作を今すぐ映画館に見に行ってください。
あなた自身に大きな変化が芽生えます。
最後に、私が本作を見て、ちょっとだけ自分が変わったなと思った例を紹介します。(取り止めもないことですが)
なれないスマホ操作で一生懸命絵文字なんかも駆使しながら、誤字とかもたくさんあるメッセージをLINEで送ってくる70代後半の母への返信。いつもは「了解」とか一言だけ返していたのだが、本作を見たら、なんか必死でスマホを操作して私に優しいメッセージを送ってくれている母を「想像」するようになりました。そして、いつもよりちょっとだけ長くなるべく優しい言葉で返信するよう心がけるようになりました。
どうでも良い、超個人的な変化の話ですが、、、参考までに残しておきます。
「ミッシング」、是非劇場でご覧ください。
映画「ミッシング」宣伝プロデューサー
吉田旅人
『ミッシング』絶賛公開中
とある街で起きた幼女の失踪事件。あらゆる手を尽くすも、見つからないまま3ヶ月が過ぎていた。娘・美羽の帰りを待ち続けるも少しずつ世間の関心が薄れていくことに焦る母・沙織里は、夫・豊との温度差から、夫婦喧嘩が絶えない。唯一取材を続けてくれる地元テレビ局の記者・砂田を頼る日々だった。そんな中、娘の失踪時、沙織里が推しのアイドルのライブに足を運んでいたことが知られると、ネット上で“育児放棄の母”と誹謗中傷の標的となってしまう。世の中に溢れる欺瞞や好奇の目に晒され続けたことで沙織里の言動は次第に過剰になり、いつしかメディアが求める“悲劇の母”を演じてしまうほど、心を失くしていく。一方、砂田には局上層部の意向で視聴率獲得の為に、沙織里や、沙織里の弟・圭吾に対する世間の関心を煽るような取材の指示が下ってしまう。それでも沙織里は「ただただ、娘に会いたい」という一心で、世の中にすがり続ける。その先にある、光に———
出演:石原さとみ、青木崇高、森優作、有田麗未、小野花梨、小松和重、細川岳、カトウシンスケ、山本直寛、柳憂怜、美保純、 中村倫也
監督・脚本:吉田恵輔
配給:ワーナー・ブラザース映画
©︎2024「missing」Film Partners
公式HP:missing-movie.jp
公式X:@kokoromissing
公式Instagram:@kokoromissing #ミッシング
【ほかのプロの記事も読む】
★宣伝のプロが語る「世界は近い」
★文学系女子が語る「映画の中で理想の部屋を探す」
★音のプロが語る「Z世代が気づく”泣ける”の先にある”学び”の大切さ」
★ファッションのプロが語る「ドラマ『RoOT /ルート』全く新しい、けれど、原点回帰のような作品」
★宣伝担当が語る「宣伝と民主主義」
COMMENT
コメントをするにはログインが必要です。不明なエラーが発生しました