業界人インタビュー
【ENDROLL】「大分のゴジラ少年、襲来」映像プロデューサーの楢本皓さん ~前編~NEW
この業界、とにかく面白い人が多い。
そんな気づきから、映画・エンタメ業界で働く人とその成りに焦点を当てたインタビュー企画「ENDROLL エンドロール ~業界人に聞いてみた」。
業界の最前線で働く方にインタビューを行い、現在業界で働いている人はもちろんのこと、この業界を目指している人にも刺激を与えていきたいと思う!
今回は映像制作会社「STUDIO VIEW」に所属する、映像プロデューサーの楢本皓さんにインタビュー!
前編では、楢本さんの映画との出会いや、湯布院映画祭からの“始まり”について詳しく聞いてみた。
大分のゴジラ少年
KIQ: プレミアや舞台挨拶など映画イベントの撮影・制作なども手掛けていると伺っていますが、改めて現在やられていることについて教えてください!
楢本: イベントのオフィシャルムービー撮影や、その模様をダイジェスト映像にまとめたり、映画本編の撮影中のメイキングのお仕事だったり、さまざまな映画の制作現場からアウトプットである宣伝現場まで、映像の仕事は多岐に渡ります。ちなみに、業界で最初にした仕事は撮影部の助手だったんです。
KIQ: そうなんですね!
楢本: はい。日芸(日本大学芸術学部)に通っていたので、その絡みで学生時代から始めました。アシスタントから徐々に撮影の仕事も任せてもらえるようになって、そのうちに、「メイキングも撮れるよね」ってことでメイキング撮影の仕事が増えていった、という感じです。
KIQ: 割と早い段階から撮影のお仕事をされていたんですね。
楢本: そうですね、20歳くらいから少しずつ始めました。映画の仕事をしたい、というのは高校生ぐらいの時から思っていましたね。
KIQ: そう思ったきっかけや、影響を受けた作品はありますか?
楢本: あります。ただ、もう少し遡ると、元々私は『ゴジラ』が好きだったんです。90年代の頭くらいの時のことで、「平成シリーズ」が復活してすぐくらいの時期でした。僕は大分出身なんですけど、地元の映画館のキャンペーンで映画の半券を持っていくと過去作が観られる、というのをやっていたんです。午前中の回だけ旧作が観られるとかで。それを観ていて『ゴジラ』が好きになりました。それと同時に、当時大分市内にゴジラのガレージキットを専門で扱っているお店があって、そこによく通っていました。結構先駆け的なお店で、店内にはゴジラとか飾ってあって面白いから見に行っていたんです。そしたら、そこで働いていたお兄さんが声をかけてくれて、なんかよく遊んでくれたんですよね。
KIQ: 素敵な出会いですね。
楢本: そのお店によく出入りしていたんですけど、実はその仲良くなったお兄さんが大分の湯布院映画祭の実行委員だったんです。
KIQ: ええ、すごい偶然!
楢本: そうなんです。そのお兄さんとの付き合いもあって映画祭に遊びに行って。そしたら「お前も実行委員やればいいじゃん」って話になって、高校1年から大学のある時期まで映画祭の実行委員をしていました。だからなんか、中学とか高校ぐらいの一番多感な時期に、よくも悪くもめんどくさいおじさんと一緒にいて(笑)それがあって、映画学校に行きたいって思ったんですよね。
KIQ: それは影響を受けますよね。『ゴジラ』と言い、結構邦画がルーツなんですね。ちなみに私は“ゴジハムくん(ゴジラとハム太郎のコラボキャラクター)世代”です(笑)
楢本: 世代でしたか〜懐かしいですね。ゴジハムの時は僕、池袋のヒューマックスでバイトしていましたね。
KIQ: ヒューマックスでバイトされていたんですね!どの時期に?
楢本: 大学1年から3年ぐらいですかね?日芸入っても、とにかく僕はずっと自主映画を作っていたんですよ。で、学校にはほとんど行かなかったので単位が取れていなくて(笑)学生時代はずっと自主映画を作ったり、バイトしたりしていました。そして、さっきの話にも繋がるんですけど、その間に湯布院映画祭とちょっと付き合いがあったんです。
苦労も失敗もすべて自分の糧に。
楢本: 1998年から湯布院では「ゆふいん文化・記録映画祭」ってドキュメンタリーの映画祭があって、それも手伝っていました。ちょうど2002年から2003年に市町村合併問題があって、合併問題に立たされていた湯布院に関連したドキュメンタリーを撮るという話があがったんです。
KIQ: なるほど。
楢本: そしてちょうどその頃、その界隈のおじさんたちが飲んでいるときに「東京の映画学校に行っている暇人がいるから、あいつを呼ぼう」って話になったそうで、僕に電話がかかってきました(笑)
それで湯布院で2カ月ほど生活しまして、そこでその記録を撮る、それを映画祭で上映するって話になったんです。当時は僕もスキルがなかったので、編集に関しては別のプロの方がいたんですけど、一応監督としてクレジットされたものが上映されました。
KIQ: 監督としてスクリーンデビューを果たしたわけですね。
楢本: そう。そうしたらその後、その作品が映画祭内で評価していただけて、ある方が出資をするから映画館でかけましょうって話があがったんです。ただし、上映するために必要な配給会社とのやりとりは自分でやる条件で。有難いことに引き受けてくれる配給会社が見つかったのですが、今度はその会社で「配給するためには、別作品のパブリシティ(宣伝)をやる」という条件がついて(笑)
KIQ: すごい展開ですね(笑)
楢本: 結局、劇場担当者やデザイナーも紹介してもらって自分で交渉を進め、半年後に劇場公開を果たしました。だからその時期に宣伝の方の感触というか、感覚を割と経験しましたね。パブリシティをやって良かったのは、取れて嬉しかった“3つの記事”があったから。朝日新聞の夕刊と、佐藤忠男さんに書いてもらったこと、あとは中央公論に10ページ載ったことです。しかも、その10ページは自分が書きました(笑)
KIQ: そんな経験もされてきたんですね!
楢本: 無事に劇場公開した後、その配給会社を紹介頂いた方の「メイキングやりませんか?」って話をいただいて、そこからメイキングのキャリアがスタートしました。
KIQ: そこからメイキングのお仕事をされ始めたんですね。
楢本: そうです。メイキングを始めて1、2年目かなんかにすごく大きい仕事いただいたんですけど、経験不足のまま「やれる」って受けちゃって。ただ、途中で破綻しちゃって、手に負えなくなったんです。そこでなんとなく、順調に続いていた仕事が途切れちゃいました。
KIQ: そうだったんですね。
楢本: で、この時期にいわゆるVP(ビデオパッケージ/企業が特定の目的のために制作する映像のこと)ですね、企業系の動画制作とかをバイトの延長でやっていました。映画学校の生徒に声がかかるような専門的なバイトだったので、何回か通ううちにディレクションのようなことも任されるようになりました。
KIQ: 学生時代から監督的な立ち回りが多かったんですね。
楢本: カメラで撮影もできて、ディレクションもできるという重宝のされ方をしたというのが正しいのかもしれません。監督と撮影、どっちかに特化していたわけではないんです。
KIQ: 監督、メイキング、VPと学生時代からいろいろなジャンルの映像制作に関わってこられたんですね。
<後編に続く>
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