業界人インタビュー
【ENDROLL】「WEB映画宣伝黎明期の軌跡」宣伝プロデューサー青木基晃さん ~前編~
この業界、とにかく面白い人が多い。
そんな気づきから、映画・エンタメ業界で働く人とその成りに焦点を当てたインタビュー企画「ENDROLL エンドロール ~業界人に聞いてみた」。
業界の最前線で働く方にインタビューを行い、現在業界で働いている人はもちろんのこと、この業界を目指している人にも刺激を与えていきたいと思う!
今回は、株式会社ウフルで映画の宣伝プロデューサーを務める青木基晃さんにインタビュー!
前編では、映画業界に入るまでの経緯から、インターネット黎明期に業界初となるWebプロモーションの実施まで話を伺った。多くの人がまだインターネットがどういうものかすら理解していなかった時代の苦労とは?
舞台俳優を目指した青春時代
KIQ: 早速ですが、昔から映画がお好きだったんですか。
青木: 子どもの頃、『ジョーズ』とか『007』といった洋画大作、薬師丸ひろ子さんや原田知世さん主演の角川映画を親に連れて行かれてよく観ていました。普通にみんなと同じ映画好きというレベルだったと思います。
KIQ: そこからどのように映画業界に興味を持たれることになったんでしょうか。
青木: 中高は陸上部だったんですけど、浪人して大学に入って、運動はどう頑張ってももう限界があるとわかっていたので、文化的なサークルがいいかなと思ったんです。で、たまたま最初に勧誘されたサークルがシェイクスピアの舞台をやるところだった。シェイクスピアを読んだこともなかったけど、新歓でちやほやされていい気になってそのまま入りました(笑)。そこで初めて演劇というものを見始めて、入学祝いのお金も全部演劇に使ってしまって。
KIQ: 一気にハマられたんですね!
青木: 当時は、演劇ブームだったこともあり演劇が面白かったんですよ。とにかく目の前で生身の人が何か演じていることが面白かったし、銭湯や百貨店の屋上、テントとか、色々なところで演劇をやっていて、カルチャーショックでした。そんな中で、つかこうへいさんプロデュースの『飛龍伝』っていう伝説的な舞台を見て衝撃を受けて、それでもう俺は演劇で生きていく!俳優になる!って勘違いして(笑)。大学3年生のときに劇団の研究生にもなりました。
KIQ: 舞台俳優の道に邁進してらしたんですね。
青木: 大学卒業後も一旦、不動産系の広告代理店に就職して──当時は社会人劇団みたいなものが流行ってたので──仮の姿として勤めながら、知り合いがやってたセミプロの演劇の制作部を手伝ったりして、俳優を目指していました。でも結局、色々な劇団のオーディション受けては落ちまくって、薄々気づいてはいたんですけど、無理だなと思って(笑)。で、29歳のときに新聞の求人でとある配給会社の宣伝プロデューサー募集を見て、初めてそこで映画の宣伝をする職種があるんだと知りました。
KIQ: 30歳ぐらいまでは二足のわらじというか、俳優も目指されながら働かれていたんですか。
青木: いや、実質26歳のときに、俳優は無理だと諦めました。でも裏方で舞台制作をやってこうとは思わなかったんですね。そこからちょっと舞台の世界から逃げたという負い目もあって、しばらく演劇も見れなくて仕事に集中はしていたんですが、俳優ではなくとも、エンターテインメントに関わる仕事を何かしたいなと思って。
KIQ: それで映画配給会社に就職することに?
青木: 実は、密かに中途募集を受けたんですが、一回落ちたんですよ。でも、また1年後にも新聞で同じ募集を目にして、もう1回受けたら受かったんです。
KIQ: 1年後に新聞でもう1回同じ求人を目にするのも不思議な縁ですね。
青木: 何かの縁か、常に募集していたのか(笑)。それで2000年に映画業界に初めて入ることになりました。自分らで買い付けたものを宣伝するのであれば、代理業じゃないからより自分ごとで色々コントロールできるのかなと思って入ったら、代理店だとフィーをもらった範囲内でやりましたっていうことになりますが、自分らのものだからこそむしろ終わりがなくて果てしなく宣伝するみたいなことに(笑)。
KIQ: 実際に入られてみて、不動産の広告代理店とは違いがありましたか。
青木: 30歳で社会人経験のプライドを持って入ったので、全く業種が違うから戸惑った部分はありました。まだ若いベンチャー企業だったので、先輩も丁寧に教えてくれないわけではないけど、自ら食らいついていかないといけなかった。会社はアグレッシブな状況ではありましたが、僕自身がその濁流にうまくコミットできず、2~3年ぐらいはくすぶっていた気がします。もっと恥も何も捨ててできればよかったのかもしれないけど、年下だけど社歴の長い人に聞いたりすることができなかったので、そこでちょっと苦しみましたね。
誰も開拓したことのない映画のWeb宣伝
KIQ: その中で何か転機となるようなことはありましたか。
青木: 当時はまだ映画の素材って、インターネット経由じゃなくて、物理的にバイク便ですべて送ってたんですよ。
KIQ: いまではちょっと想像できないですね…
青木: これからインターネットで素材をやりとりする時代が来るからということで、そういうシステムをある通信会社と合同で作るという話になって、その担当を任されたんですよね。誰もやったことがない分野だったので、そこで少しずつ自分の居場所ができたように思います。本当に0→1で構築して、さらにWebに特化したWebパブリシティっていう職種も作ろうということになったので、それはひとつの転機でした。それが2002~2003年頃ですかね。当時はまだインターネット自体が安定してなくて、僕が「携帯で予告編を流せるんですよ」って同僚の作品宣伝担当者に見せても、素材提供してもいいけど意味あるの?って言われてたような時代でした。
KIQ: 徐々にインターネットも発展し、映画業界でもWebプロモーションも広まっていった?
青木: 映画web媒体やポータルサイトが花開いてきた時期で、そういうところと連携して何かをやることがだんだんスタンダードになっていきました。でも当時はヤフーニュースに出ても何がいいのか理解されなくて。新聞に載った面積がどれだけ大きいかみたいなことが評価の基軸だったんで、ヤフーニュースだと見出しは10文字ちょっとじゃないですか。それをクリックする人の流通はすごいんですよっていうのを本当に1年間ぐらい説得していって、それを実感してもらえるまで社内営業を一生懸命してました。テレビ、新聞、雑誌、ラジオといった今でいうオールドメディアが王様で、ネットは一番最後でした。
KIQ: そこからWebプロモーションをメインにやられてるんですか。
青木: そうですね。Web専門のチームを作ってもらったりして、配給会社に在籍していた後半はインターネットのニーズがすごく高まってきたので、時代的に社内の中でも存在感が出てきましたし、そういったところに携われたのはよかったかなと思います。何かやって失敗するよりも何もやらないことの方が手厳しく見られたので、そういうところで30代は鍛えられたような気がします。
KIQ: その中で大変だったことはありましたか。
青木: 社内から作品をWebでどうやって話題作りするかというのがポンと放り込まれて、そこからアイデアを出さなきゃいけなかったんですが、宣伝マン自身が動けば費用かからないってことで、自分たちで動物の映画なら着ぐるみ行脚したり、格闘技映画ならK-1ファイターに道場破りに行ったり(笑)、みんな疲弊したのでもちろん大変で、意味があったのかどうかはわからないけどとにかくチャレンジして、ある種部活チックな熱病みたいな時間だったような気がします。費用対効果よりも何かインパクトあることを当時やり尽くせたのはよかったですし、発想方法とか鍛えられたと思いますね。逆にそれがあったらから今はものすごく効率を考えて宣伝スタッフに負担がないように、ということを気をつけてます。
KIQ: 現在、所属されているウフルさんではどういう風に業務されているんですか。
青木: 映画やエンターテインメントの会社ではなくBtoBのITベンチャー企業なんですけど、配給会社にいた時代にいまの会社の社長とは知り合って、10年前ぐらいから在職しています。仕事のスタイルとしては、フリーの宣伝マンに近くて、外部のスタッフを編成して、外注の宣伝プロデューサーとして動く感じで、1人映画事業部みたいな形になっていますが、PR系の案件の場合は社内で声をかけてもらって連携するという感じです。
<後編に続く>
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